子どもはなぜ「意外な間違い」をする?──推論を支える「スキーマ」とは
2026.08.01

スキーマとは、経験からつくられる知識の枠組み
「片づける」から考えるスキーマ
前の記事では、「アブダクション推論」を紹介しました。目の前の手がかりと、すでに持っている知識や経験を結びつけて、「こういうことかもしれない」と仮説を立てる推論のことです。
▽前回の記事はこちらから
その中で例として登場したのが、「片づける」ということばです。
- 積み木を箱に入れる
- 読み終わった本を棚へ戻す
- 食事のあとの食器を台所へ運ぶ

片づける物も、手の動きも、収める場所も違います。それでも、3つとも「片づける」と言えます。
子どもは、「片づける」ということばが使われるいくつもの場面に出会います。そして、場面ごとの違いを越えて、「これは、こういう意味なのかもしれない」と共通する意味を考えていきます。
こうして、経験や知識をもとにつくられ、ものごとをどう捉えるかに関わる暗黙の知識の枠組みを、認知科学では「スキーマ」と呼びます。
アブダクション推論は、目の前の手がかりと、すでに持っているスキーマを組み合わせて進みます。
アブダクション推論 = 目の前の手がかり + スキーマ

つまり、アブダクション推論の質を左右するのが、スキーマです。使えるスキーマがある分野では、一つの手がかりから次々に意味を広げられます。一方で、必要なスキーマがまだなかったり、誤ったスキーマを使ったりすると、推論する力があっても、問題や文章の条件と合わない仮説へ進むことがあります。
一を聞いて十を知るか、手前でつまずくか。その分岐の一つが、その分野について使えるスキーマを持っているかどうかです。
算数では、誤ったスキーマが理解を難しくする
今井先生は、算数でつまずく背景の一つに、数の意味について、授業で必要とされるものとは異なるスキーマを持っていることがあると説明しています。
「1、2、3」と言えても、「1」がわかっているとは限らない
子どもは、「1」ということばを算数の授業で初めて知るわけではありません。小さいころから、「1、2、3」と数える場面で何度も耳にしています。
そのため、最初のうちは「1」を、「最初はグー」の「グー」のように、数えるときに最初に言う言葉として捉えていることがあります。
しかし、算数で使う「1」には、「全体」や「基準」という意味もあります。
たとえば、「30人の子ども全体を1とする」ときの「1」は、1人の子どもではありません。30人を1つのまとまりとして見たときの、基準となる全体です。
「1」を、数えるときの最初のことばとしてしか捉えていないと、「30人全体を1とする」といった、基準としての「1」が理解しにくくなります。そうすると、「30人のクラスを1としたとき……」というような文章題が理解できず、無回答やとりあえず出てきた数字を足すなどの当てずっぽうな回答をしてしまうのです。

また、「数は1、2、3……のような整数だけ」というスキーマが残っていると、小数や分数も理解しづらくなります。
つまずくお子さんが多い分数や小数。0.1と1/10が共に1を全体とした時の1割、同じ数を表しているとわからないので、分数と小数の数の大きさを比較する問題が出た時にどう計算してよいかわかりません。
子どもたちがそうした問題につまずく理由は、その単元の計算を理解できているかどうかよりも手前にある、数の意味についてのスキーマのずれにあることも少なくないのです。

国語の文章を読むときにも、スキーマで行間を埋めている
スキーマが推論を支えているのは、算数だけではありません。文章を読むときにも、私たちはスキーマを使っています。
文章を読むとき、私たちは文脈と知識を照らし合わせながら、ことばの意味を調整しています。しかし、必要なスキーマがなければ、知っている意味をそのまま当てはめ、文脈に合わない読み方をすることがあります。
「手あらい」を「手洗い」と読んだお子さん
ある保護者さまから、小学2年生のお子さんが『ないたあかおに』を音読したときのエピソードが寄せられました。
音読の宿題で「ないたあかおに」を初めて読んだときのこと。
赤鬼が苛立って、物にあたっていると、仲間の青鬼が訪ねてくるシーンで、青鬼が
「どうしたんだい。手あらいことをして。」と言います。
小2の息子にとって、「てあらい」と言えば「手洗い」がとても身近な言葉で、よもや「手荒い」という言葉が存在しているとは思ってもいない様子でした。
「手洗い」と「手荒い」ではアクセントが違うと思うのですが、息子は「手洗い」のアクセントのまま音読を続けていました。
本来なら前後の文から、「手あらい」≠「手洗い」「手あらい」≒「乱暴な」と推論するのが、記号接地だとは思うのですが、うちの息子の場合、「手洗い」では無さそうだが、他に意味を知らないから、自分の知っている「手洗い」に漢字変換して無理に音読を進めていたので、母である私が「手あらい」の解説をして、残りの音読の宿題を進めたということがありました。

文脈には合いませんが、お子さんが持っているスキーマから推論して、読もうとした結果だと考えられます。ですから、お子さんの立派な学びの過程ですし、これから「手荒い」という言葉もあるのだと意味が修正されていくでしょう。
一方で、その時点で「手荒い」という意味につながるスキーマがなければ、知っている「手洗い」を使って読むしかないということもわかります。文脈に合わせて読むためには、行間を埋めるスキーマが必要なのです。
答えを直す前に、推論の出発点を知る
分数の捉え違いも、「手あらい」を「手洗い」と読んだことも、そのときに使えたスキーマから意味を考えた結果です。お子さんの答えが問題や文章の意図と合わないとき、正しい答えを伝えることはできます。しかし、答えだけを直しても、その答えを生んだスキーマが同じままなら、別の場面でまた理解がつながらなくなることがあります。
ですから、大人に必要なのは、正誤だけを見るのではなく、お子さんがその言葉や数を、どのような意味として捉えていたのかを知ろうとすることです。
周囲の大人が理解の出発点を知り、新しい経験や意味とつながる機会を用意することで、子ども自身のスキーマのつくり直しを支える足場をかけることができます。
読書が「学び」になるのは、どんなとき?
その足場の1つになりうるのが、読書です。
ただし、本を読んでいれば、いつでもスキーマを使った推論や、仮説の修正が活発に起こるわけではありません。では、どんなときに読書は「学び」になるのでしょうか。
次の記事では、読書中の子どもの中で起きている推論と、読書が学びにつながるための条件を考えます。
※5本の連載とお伝えしておりましたが、構成の都合上最後の2本分の内容を次の記事1本でお届けします。ご了承のほど、よろしくお願いいたします。
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